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北の庄城址・柴田神社(福井県福井市) [他県の城館跡]


 JR福井駅から西南に徒歩約5分のところに、北の庄城址(きたのしょうじょうあと)・柴田公園があります。福井城本丸跡から直線で約500メートル南の位置です。北の庄城は織田信長の重臣柴田勝家(しばたかついえ)の居城であり、勝家が城下町の整備を始めましたので、福井市の基礎を築いたのは、この勝家であるといえると思います。(2006年3月29日撮影) 柴田勝家は織田信長の父である信秀にも仕えた、信長の重臣です。出身は尾張国と言われています。1556(弘治2)年、信長の弟である信行を擁立するクーデタを起こしましたが、信長・信行の母の計らいで許されました。しかし、その後再び信行が謀反を企てたので、勝家はこれを信長に報告することにより手柄(「返り忠」)としました。こうして勝家は信長の重臣として重く用いられるようになり、信長の統一戦争においてもつねに勇猛果敢に戦いました。
 1571(元亀2)年の「伊勢の一向一揆」に対する戦いでは負傷することもありましたが、1575(天正3)年8月から始まった「越前の一向一揆」との戦いにおいても勝家は活躍し、これが平定されると南条郡・今立郡(いまだてぐん)の2郡を除いた越前国の大部分が勝家の支配下に入ることになりました。こうして越前支配の拠点としての北の庄城の築城が開始されました。
 かつての越前の国の中心地は朝倉氏の城下町である一乗谷でしたが、支配の拠点としての機能や城下町の経済発展を重視し、平地に平城を築くことになりました。
 1581(天正9)年、ポルトガル人のキリスト教宣教師ルイス=フロイスが北の庄城を訪れたことが記録として残っていますが、それによると北の庄城は9層の天守閣のそびえる壮大な城郭であったようです。この北の庄城址がかつて本丸のあった場所であると考えられています。
 1582(天正10)年3月、勝家は尾山御坊(金沢市)を攻め、「加賀の一向一揆」を平定しましたが、同年6月2日の「本能寺の変」で主君である織田信長が亡くなると、信長の後継者争いに巻き込まれることになりました。本能寺の変の時、勝家は越中国(富山県)において上杉景勝の軍勢と戦闘中でしたが、明智光秀を破った羽柴秀吉のような迅速な行動をとることはできませんでした。
 柴田勝家が提唱したと言われている、織田家の後継者を選ぶ重臣の会議いわゆる「清州会議」が6月17日に開かれ、後継者は勝家の推す織田信孝(信長の三男)ではなく、羽柴秀吉らが推す三法師(さんぼうし。信長の嫡子で二条御所で自刃した織田信忠の子)に決まり、また勝家は秀吉の支配していた近江長浜を得ることになりました。長浜城には、養子で丸岡城主の柴田勝豊(しばたかつとよ)が入城しました。勝家は清州会議の後、信長の妹であるお市の方と結婚し、織田家の一員となりました。お市の方は小谷の方ともいい、浅井長政に嫁いで三人の娘を設けましたが、浅井氏が滅んで未亡人となっていました。
 長浜に代わって山城国などを得た羽柴秀吉は、京都山崎の天王山に新たに城を築き、さらに10月15日には京都の大徳寺で信長の葬儀を盛大に執り行い、信長の後継者が自分であることを天下に示すなど、勝家と鋭く対立するようになりました。
 1582年末、雪に閉ざされてすぐに動けない勝家が北の庄城にいる間に、秀吉は大軍で長浜城を包囲し勝豊を降伏させ、さらに美濃における戦いで三法師を擁する織田信孝を降伏させて、三法師を安土に移させることに成功しました。
 1583(天正11)年3月3日、ついに勝家が北の庄城から出陣し、9日には柳ケ瀬(滋賀県伊香郡余呉町)に陣を敷きました。秀吉軍も17日に木ノ本(滋賀県伊香郡木之本)に陣を敷き、しばらくの間両陣のにらみ合いが続きましたが、4月20日、勝家方の佐久間盛政の軍勢が攻撃を開始してから本格的に開戦しました。21日にかけて特に激戦地だったところが「賎ヶ岳」(滋賀県)であったところから、勝家と秀吉のこの戦いを「賎ヶ岳の戦い」と呼んでいます。
 盛政が、勝家の撤退命令を無視して深追いし、余呉湖あたりにとどまったため、大垣城から短時間で帰還した秀吉軍に動揺し、21日夜に撤退を始めました。この時、勝家の軍事指揮下にあるはずの前田利家が余呉湖西岸から撤退したこともあり、柴田勝家軍勢は越前北の庄城へと退却しました。
 23日、前田利家と堀秀政の率いる秀吉軍が北の庄城を包囲、勝家も覚悟を決めて酒宴を催したと言われています。翌4月24日、攻城が早くから始まり、夕方には城から出火、勝家は自害し、お市の方もともに亡くなりました。
 三人の娘(お茶々・お初・お督)は城を出て秀吉に託されました。お茶々は後の淀君で豊臣秀頼の母、お督は徳川秀忠の夫人となりました。
 柴田勝家との戦いに勝利した羽柴秀吉は、ここに天下統一の基礎を築いたことになります。
 その後北の庄城は、徳川家康の二男結城秀康(ゆうきひでやす)が新たな城(福井城)や城下町を築くために失われてしまいました。
 北の庄城址は、1993(平成5)年に発掘調査が開始され、遺跡の状況がわかるよう城跡が整備・保存されることとなり、2004(平成16)年に北の庄城趾公園と柴田公園が造られました。

城址の西に立つ柴田神社拝殿。柴田神社は、無念の死を遂げた柴田勝家の霊を慰め祀る神社として、1890(明治23)年に建立されました。

拝殿の下には、発掘された北の庄城のものと思われる石垣が保存されています(写真中央)。福井城三の丸の南の郭の南西部分にあったものです。

この石垣跡を近くで撮影したもの。


石垣跡の標示。

北の庄城の石垣の一番下の部分と考えられる石。このような石垣の石を根石と言います。福井城を築城する際に、撤去された古い石垣の名残といえます。

福井城の堀の様子を標示しています。底が二段になっていたようです。

福井城の堀や土居の状況を標示。日向門の升形を構成する施設の一部であったようです。

日向門の礎石を標示しています。正面に見えるのは、柴田神社の拝殿です。

柴田神社の本殿。

神社の近くに立つ柴田勝家像。


柴田勝家とともに北の庄城で自刃したお市の方の像。

縮小して復元された九十九橋(つくもばし)が城址の南端にあります。九十九橋は、柴田勝家が足羽川に架けた唯一の橋で、築城と同時期の天正年間(1573〜92年)に架橋されました。


■参考資料
『日本の歴史11天下一統』熱田公、集英社、1992年
『福井県の歴史散歩』福井県の歴史散歩研究委員会、山川出版社、1991年
『名城をゆく30北庄城・丸岡城・一乗谷館』小学館、2004年
「柴田勝家」井沢元彦、『名城をゆく30北庄城・丸岡城・一乗谷館』小学館、2004年
「賎ヶ岳から北の庄城へ 前田利家の5日間」小和田哲男、『名城をゆく30北庄城・丸岡城・一乗谷館』小学館、2004年
『新版角川日本史辞典』朝尾直弘・宇野俊一・田中琢、角川書店、1996年

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anti-spy

台湾ツアー 1万円
是非、遊びに来てくださいね(^0_0^)
by anti-spy (2006-07-12 00:11) 

i-shinkuro

>mazda様。コメントありがとうございます。台湾1万円安いですね。いつか台湾歴史散歩してみたいです。
by i-shinkuro (2006-07-12 18:30) 

merry

はじめまして。merryです。
このブログを見せていただいて、写真の美しさにハッとしました。
同じ場所を撮っても、こんなに違うのですね(笑)
それに、とっても詳しく丁寧に撮られています。
とても勉強になりました。またおじゃましますね。
by merry (2006-07-13 20:56) 

i-shinkuro

>merry様。コメントありがとうございます。写真についてお言葉をいただき恐縮です。なかなか思うように撮影できませんが、カメラの性能に助けられることもありますね。すごく気に入っているコンパクトカメラなのですがもう製造中止になってます。
 また旅行先でたくさん写真をとるのですが、ブログに載せるのがだいぶ遅れてしまっています。ではまた。
by i-shinkuro (2006-07-13 21:39) 

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