武田氏館西曲輪跡(山梨県甲府市古府中町) [他県の城館跡]
武田氏館跡(躑躅ヶ崎館跡。国指定史跡)主廓の西側に築かれたのが西曲輪です。写真は水堀の南西から撮影した西曲輪の土塁です(2022年9月4日、GRDIIIで撮影)。
写真の左に見えるのが西曲輪で、正面に見えるのが主廓(中曲輪・東曲輪)です。西曲輪は東西1町(約109メートル)、南北2町(約218メートル)の長方形の曲輪となっています。西曲輪の北と南には小口が設けられています。写真は南小口の前の橋の上から東方向に撮影したものです。西曲輪の西と南、主廓部の南に築かれた水堀は幅が最大15メートル、深さ8メートルにも及びます。
東にある主廓部とは堀によって区切られており土橋でつながっています。
五稜郭(函館市) [他県の城館跡]
五稜郭タワー展望台から見下ろした五稜郭(国特別史跡)。城内の中心にあるのが2010年に一部復元された箱館奉行所。その左に見える白壁の建物は兵糧庫で、これは現存する唯一の建造物です(2018年8月9日、GRDⅢで撮影)。
箱館奉行所は元々は現在の元町公園の場所にあったものですが、1854(安政元)年に函館が開港すると内陸部であるこの亀田に移されることになりました。これらの施設を守るために西洋式の城郭が築かれました。この日本初の洋式星形城郭を設計したのは蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)で、1864(元治元)年にようやく完成しました。
■参考資料
『北海道の歴史散歩』北海道高等学校日本史教育研究会、山川出版社、2006年
「箱館奉行所」パンフレット、名美興業株式会社
タグ:北海道
金山城跡(群馬県太田市) [他県の城館跡]
金山城跡(国指定史跡)は、東武鉄道太田駅の北方約1.4キロメートルのところにある山城跡で、1469(文明元)年に岩松家純によって築かれました。関東の戦国山城には珍しい石垣を多用した重厚な山城です。(2014年3月8日、GRDⅢで撮影。)
写真は、本丸(実城。みじょう)に連絡する通路の入り口である「大手虎口」で、侵入してきた敵兵に脅威を与える高い石垣が通路両側・正面にそびえています。これらの石垣は発掘調査に基づいて復元・整備されたものです。
城は、後に由良氏と改名する横瀬氏が城主となります。その後金山城は、上杉謙信や武田勝頼らの攻撃によっても落城することはありませんでした。後に後北条氏の支配下に入りますが、1590年の豊臣秀吉の北条攻めで前田利家らに接収され、やがて廃城となりました。
■参考資料
『史跡金山城跡』(パンフレット)太田市教育委員会文化財課、2012年3月
『群馬県の歴史散歩』群馬県高等学校社会科教育研究会歴史部会編、2005年、山川出版社
タグ:戦国時代
会津若松城跡(福島県会津若松市) [他県の城館跡]
会津若松城「太鼓門跡・帯郭跡」 [他県の城館跡]
北出丸跡・追手門跡から本丸に入る坂を椿坂といいますが、本丸入り口にあるのがこの太鼓門跡です。この写真で言うと、右側に門がありました。正面には天守閣が見えています。正面の石垣の裏側(南側)には緊急事態に備えるために造られた武者走りがあります(3・4枚目の写真参照)。
この門跡周辺の石垣には巨大な石が多用されています。城を訪れる人に対して威圧する効果をねらったものと思われますが、こうした傾向は他の城にも見られます。
会津若松城「三の丸跡・二の丸跡」 [他県の城館跡]
右が二の丸跡で、左が本丸跡です。間の堀は三岐堀といいます。奥に見えるのが、二の丸の北側部分で伏兵郭と呼ばれています。写真でもわかるように、二の郭は石垣で周囲を囲まれていません。三の郭も同様です。