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源義賢墓(埼玉県比企郡嵐山町大蔵) [鎌倉街道跡]

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[記事を訂正しました]
 旧鎌倉街道上道跡が県道172号線と交差する地点から旧鎌倉街道を南下してすぐに左(東)に入る道があります。この道を進むと左手に民家が見えますが、鳥居をくぐった先の民家の裏手に源義賢(よしかた)墓(埼玉県指定史跡)があります(2022年5月4日、GRDIIIで撮影)。
 源義賢(不詳〜1155年)は源為義(ためよし)の次男で、源(木曽)義仲の父にあたる人物です。また源頼朝の父である源義朝(よしとも)は、源義賢の兄にあたります。義賢は近衛天皇が皇太子であった時にその警護を担当(帯刀長)してたことから帯刀先生(せんじょう)とも呼ばれていました。
 源義賢は上野国多胡荘(群馬県高崎市吉井)を拠点としていましたが、秩父重隆の娘婿となり武蔵国北部に勢力を拡大しようとしました。その居館と考えられているのが大蔵館跡(埼玉県指定史跡)で、旧鎌倉街道上道跡を挟んだ反対側の県道沿いにあります。今ここには大蔵神社が建っています。
 そしてこの源義賢の武蔵国進出に対抗したのが鎌倉を拠点にしていた源義朝でした。1155(久寿二)年8月16日,源義朝の子である15歳の源義平(よしひら。1141〜1160年)に大蔵館を襲われ義賢は滅ぼされました。この戦いを大蔵合戦といいます。義平はこの戦いで有名となり「悪源太」と呼ばれるようになりました。この戦いの結果、武蔵武士は源義朝方として保元・平治の乱に動員されました。
 大蔵合戦の際に、義賢の子で当時2歳の駒王丸は信濃国木曽に逃れることとなります。彼が後の源(木曽)義仲です。

お参りする


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新座市大和田の鎌倉街道跡(埼玉県新座市大和田4丁目) [鎌倉街道跡]

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 新座市教育委員会の設置した現地の案内板によると、この道は鎌倉街道の脇街道の一つで鎌倉街道上道(かみつみち)の久米川宿(東京都東村山市)から分岐し、柳瀬川沿いに北東に進み下宿(東京都清瀬市)を経由、この大和田や宗岡(埼玉県志木市)を経て羽根倉の渡し(埼玉県志木市〜さいたま市)を通って鎌倉街道の中道(なかつみち。奥州道)に接続して奥州に向かう道とされています。
 写真は、普光明寺の東南に伸びる鎌倉街道跡で東から(志木方面から大和田宿方面)撮影したものです(2022年2月25日、GRDIIIで撮影)。右に見えるのが普光明寺です。近世の大和田宿がさかえる以前はこの鎌倉街道沿いにあった普光明寺や近くの大和田氷川神社のある地域を中心に古くから栄えていたと思われます。
 この街道は旧川越街道とほぼ直角に交差しており、交差点は大和田宿の上宿にありました。

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鎌倉街道を歩く [鎌倉街道跡]

 鎌倉街道は、武家の都鎌倉と地方を結ぶ幹線道路で、軍の移動も可能なように整備された中世の道路です。なお「鎌倉街道」という呼称は江戸時代に一般的になったようです。
 主な鎌倉街道には西から「上道(かみつみち。鎌倉~府中〜所沢〜埼玉県西部・上州・信濃・越後)」「中道(なかつみち 。鎌倉〜二子玉川〜川口〜下野国〜奥州)」「下道(しもつみち。鎌倉〜浅草〜国府台〜石岡〜奥州)」三本があります。
 この幹線道路以外にも、鎌倉街道と呼ばれる古道がありました。鎌倉街道の脇道(脇往還)にあたるもので慈光寺道、秩父往還、越谷道、熊谷道、堀兼道、羽根倉道などが有名です。

 ■関連記事

源義賢墓(埼玉県比企郡嵐山町)新座市大和田の鎌倉街道跡(埼玉県新座市大和田4丁目)・小手指原古戦場跡碑(埼玉県所沢市)ほか

 ■参考資料

『古道を歩く-鎌倉街道歴史探訪』埼玉県立歴史資料館、奥武蔵古文化研究会、2000年
『埼玉県の歴史散歩』埼玉県高等学校社会科教育研究会、山川出版社、2005年
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小手指原古戦場跡碑(埼玉県所沢市) [鎌倉街道跡]

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 鎌倉街道上道(かみつみち)の脇道(支道)がここ所沢市小手指にも通っていましたが、小手指周辺はいくつかの合戦が繰り広げられた場所でもあります。
 上の写真は、鎌倉街道上道の脇道のかたわらに建っている小手指原(こてさしがはら)古戦場跡碑です。このあたりが合戦の場所の一つとされているようです。
 1333(元弘3)年5月8日、鎌倉幕府打倒をめざす新田義貞(1301〜38)が生品神社(群馬県新田町)で挙兵し鎌倉街道を南下、5月11日には小手指原に到達しました。そしてこの小手指原周辺で新田軍と鎌倉幕府軍との間で合戦が繰り広げられました。北条高時らが自害し、鎌倉幕府が滅亡したのは同年5月22日のことです。(2010年8月5日撮影。GRDⅢ)

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タグ:中世
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