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雉岡城跡(埼玉県本庄市児玉) [埼玉県の城館跡]


 JR八高線児玉駅の西、徒歩10分足らずのところに雉岡城跡(きじがおかじょうあと)があります。埼玉県指定史跡で、公園となっており散策にも良いところです。写真は、「ほうき郭」の南側の堀と土塁を西から撮影したもので、土塁の高さは約8メートルあります。
 雉岡城跡はまず、関東管領山内上杉氏の居城として築かれましたが、平井城(群馬県藤岡市)に移ったため、家臣の有田豊後守の治める城となりました。川越から上野国西部へのルートに位置するため重要視されていたものと思われます。
 その後永禄年間(1558〜1570年)には北条氏邦の支配下に入り、鉢形城の支城として機能していたようですが、豊臣秀吉の小田原の陣(1580年)の際に、前田利家らによって攻め落とされました。
 1590年、関東地方が徳川家康の支配地になると、松平清宗が居城しましたが、1601年に松平家清が転封となると雉岡城は廃城となりました。
 城域は南北約400メートル、東西約250メートルにも及ぶ広大なものですが、城の西側の本丸跡に中学校が、そのすぐ北の二の丸跡には高等学校が建設されました。

城の南端にある大手から北をのぞむ。遠くに馬出郭に建つ塙保己一記念館が見えます。

城跡の南にある馬出郭跡と堀跡を東南から撮影。西側は中学校の敷地になっています。

馬出郭跡から北にある堀跡をのぞむ。

西の本郭跡(写真左)と東のほうき郭跡(写真右)の間の堀跡。この堀のさらに先は高等学校の敷地になっています。

ほうき郭の東側の土塁跡。

ほうき郭跡の北部分。駐車場を囲むように土塁跡が残っています。

ほうき郭の東にある堀跡。この土塁の先の一部は東にせり出していて升形土塁になっています。写真の奥に少し見えます。

城の南端にある土塁跡を北から撮影しました。

東南の土塁跡と堀跡。
 なお城の北西の保木野地区に塙保己一旧宅跡があります。(2006年4月23日)
■参考資料
『城郭資料集成 中世北武蔵の城』梅沢太久夫、岩田書院、2003年
『日本城郭大系第五巻 埼玉・東京』新人物往来社、1979年
『埼玉県の歴史散歩』埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会編、山川出版社、2005年


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それがし

こんにちは!
ここには前に行ったことがありますが、とても分かりやすく撮影されていますね!
小さなコンクリの武者像があって印象に残っています。(見ました?)
by それがし (2006-12-22 12:43) 

i-shinkuro

>戦国はにわ様、コメント感謝です。おほめいただきありがとうございます。このコンパクトカメラの性能は本当にすごいです。
さて、武者像については見ることができませんでした。残念です。
確か、小さな動物園はあったような気がしましたが…。
そういえば、戦国はにわ様は銅像に詳しいようですね。またいろいろとお教えください。
ではまた。
by i-shinkuro (2006-12-23 23:17) 

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