航空記念公園(埼玉県所沢市並木) [歴史散歩]
西武新宿線航空公園駅の東口から徒歩で東に進むと県営の航空記念公園があります。航空記念公園にはかつて日本初の飛行場がありました。1911(明治44)年、東西幅50メートル・長さ400メートルの滑走路、飛行機格納庫、軽油庫、気象観測所などを備えた臨時軍用気球研究会所沢試験場(所沢飛行場)が開設されましたが、これが日本初の飛行場で後の所沢陸軍飛行場です。
陸軍が所沢を飛行場の地に選んだのは地理・気象条件が良好だっただけではなく、気球隊があった東京の中野から近く、鉄道などの交通網が発達していたからでした。
写真は、航空自衛隊入間基地で使われていたC-46中型輸送機と「航空発祥の地」碑です(2023年8月3日、iPhoneSEで撮影)。
滑走路跡の一部を東から西に向かって撮影。ここで初めて飛行したの徳川好敏大尉の操縦するフランス製複葉機アンリ・ファルマン機で、1911(明治44)年4月5日早朝のことでした。
飛行時間は1分20秒、高度は10メートルでした。滑走路跡は現在芝生で覆われています。
写真は航空整備兵の像。1919(大正8)年、陸軍航空学校が開設されフランスの支援もあり、航空機操縦術や航空機工学が教授されました。さらに1935(昭和10)年に陸軍航空技術学校(1939年立川に移転)が創設され、1938(昭和13)年には陸軍航空整備学校が開設されて航空機整備兵の養成が行われました。
写真の航空整備兵の像(長沼孝三氏作)は1944(昭和19)年に陸軍航空整備学校の敷地内に建立されていたものを後に所沢航空資料調査収集の会の方々が修復して公園内に設置したものです。
こうして所沢飛行場は日本の航空教育の中心地として発展し、1944(昭和19)年には敷地面積が開設当時と比べて5倍にまで拡張しました。
1945(昭和20)年の敗戦後アメリカ軍は所沢飛行場にも進駐し、所沢飛行場は「キャンプ・トコロザワ」に変わり、多くの航空機もこの時破壊されました。1950(昭和25)年から始まった朝鮮戦争において所沢基地は兵器廠として重要な役割を果たし、所沢市民も多数基地に雇用されました。
その後1971(昭和46)年から1982(昭和53)年にかけて基地の約70パーセントが返還されました。未返還の場所は米軍の通信基地となっています。返還された基地跡には住宅・学校・公共機関・航空記念公園などがつくられました。航空記念公園は1978(昭和53)年に埼玉県によって開設されました。1993(平成5)年には写真の所沢航空発祥記念館が開館しました。
記念館では航空機や国産機のレプリカの展示のほかフライトシュミレーターによる模擬操縦体験できる施設などもあり、航空について様々なことを学べるようになっています。
公園内にある放送塔。
■参考文献・資料
『埼玉県の歴史散歩』埼玉県高等学校社会科教育研究会、山川出版社、2005年
『埼玉の教科書』JTBパブリッシング、2021年
ホームページ「所沢航空発祥記念館」
所沢航空資料調査収集の会現地解説板
所沢教育委員会現地解説板
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