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日光脇往還 ブログトップ
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松山宿入り口付近(埼玉県東松山市神明町)から下沼公園(本町)へ [日光脇往還]

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 左の道が県道で右(東)にそれていく道が日光脇往還(2022年1月16日、GRDIIIで撮影)。
 日光脇往還を北上し東松山市の若松町から神明町に入るところで県道66号線に合流します。交差点の南には九鬼神社が建っています。県道をさらに北に進むと歩道橋がありその先に清正公堂が左側にあります。清正公堂の前に県道から右にそれていく細い道がありますが、この細い道が日光脇往還でこのあたりが松山宿の南の入り口となっていました。

下沼公園まで進む


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石橋供養塔(東松山市本町下沼公園内) [日光脇往還]

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 東松山郵便局の東側、下沼公園の入り口にある石橋供養塔(2022年1月10日、GRDIIIで撮影)。下沼公園は日光脇往還の道筋にある公園で、池はかつては農業用の溜池であったと思います。
 石橋供養塔とは、石橋を設置・修理・改修したり木橋を石橋に掛け替えたりした時に、橋の完成などを祝ったり橋の長寿を祈願するため、また交通の安全を祈って建立されたと思われる石造物です。江戸時代から明治時代にかけて東日本で数多く建立されました。
 この石橋供養塔の右側面には「箭弓道」と刻まれています。箭弓とは箭弓稲荷神社(東松山市箭弓町2-5-14)のことで、神社は約500メートル西にあります。「箭弓道」と刻まれている方角とは逆方向であるので供養塔は移設されたと思われますが、この供養塔は道標も兼ねていたと考えられます。
 また石橋供養塔の左側面には「文化三年(1806年)五月」「松山下町中 世話人横町紋兵衛」等と刻まれています。下町とは宿場町であった松山宿の南側のことを指しています。このあたりが宿場町として栄えていたことを示す石造物ではないでしょうか。
 公園内にある庚申塔にも「下町」の文字が刻まれています。

 ■参考資料

『石仏調査ハンドブック』庚辛懇話会他、雄山閣、1993年
『埼玉県の歴史散歩』埼玉県高等学校社会科教育研究会、山川出版社、2005年
「東松山市観光案内」東松山市観光協会
「きまぐれ旅写真館」ホームページ

下沼公園を見てみる


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八雲神社(埼玉県東松山市本町) [日光脇往還]

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 松山宿上宿(上町)の上沼公園のすぐ近くにある神社が八雲神社(東松山市指定文化財)で日光脇往還の道筋、松山宿の北方に建っています(2022年1月10日、GRDIIIで撮影)。江戸時代後期の創建で社殿は神話などをモチーフとした彫刻作品で囲まれています。

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松山宿(埼玉県東松山市) [日光脇往還]

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 2022年1月10日、GRDIIIで撮影。
 松山宿は日光脇往還の宿場であると同時に川越宿(川越街道)や熊谷宿(中山道、秩父往還など)を目指す人々のための宿場でもありました。松山宿は高坂宿(埼玉県東松山市)から約4キロメートル、行田宿までは約16キロメートルの位置にあります。また松山宿は日光から帰る八王子千人同心の帰りの昼食地でもありました。
 戦国時代の松山は松山城の城下町として栄えていました。その場所は現在の松本町がその中心でした。しかし江戸時代になり松山城が廃城(1601年)になると日光脇往還や児玉往還などの街道の宿場町として発展します。松山の中心地は現在の本町で町の中心地は西の方へ移動したこととなります。
 小川道・鴻巣道が交差するところを「札の辻」と言いますが、その周辺を「中町(中宿)」、札の辻の北の上沼までを「上町(上宿)」、南の下沼までを「下町(下宿)」と呼んでいました。
 昭和初期までは蔵造りの町並みが形成されていたそうです。

■主な史跡・文化財など

松山宿入り口付近から下沼公園へ(埼玉県東松山市神明町〜本町)・石造馬頭観音と庚申塔(東松山市本町)・石橋供養塔(下沼公園)・福聚寺松山宿中宿(中町)周辺松山宿上宿(上町)・曹源寺・八雲神社(本町)・上田朝直青石塔婆ほか
 
■参考資料

『歴史の道調査報告書第四集 日光脇往還』埼玉県教育委員会、1985年
『埼玉県の歴史散歩』埼玉県高等学校社会科教育研究会、山川出版社、2005年
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日光脇往還 [日光脇往還]

 日光脇往還は八王子千人同心町(東京都八王子市)から高萩(埼玉県日高市)・坂戸(埼玉県坂戸市)・行田(埼玉県)・佐野(栃木県)などを経由して日光までを結ぶ江戸時代の脇往還(脇街道)です。八王子千人同心が日光へ向かうためのと脇街道して整備・管理されました。
 この街道は他にもいろいろな呼ばれ方をします。「千人同心日光道」「八王子道」「日光御火之番様御通り之道」などです。
 八王子千人同心とは八王子千人同心町に居住し定期的に日光山に赴き防火の任(日光火之番)にあたった武士たちのことで元々は江戸を防衛するために設置されたようです。この日光火之番が始まったのは1652(慶安5)年です。
 日光脇往還の中にはかつて「八王子道」「坂戸道」「松山道」「行田道」などと呼ばれていたいくつかの道路から成り立っているので、戦国時代の八王子城・川越城・松山城・忍城・館林城を結ぶ軍用道路をつなぐ一本の街道として整備されたものと考えられます。
 八王子千人同心は片道約156キロメートル(三十九里三十丁)の距離を3泊4日の行程で日光に到達しました。日光街道を利用するよりも1日早く到達できることになります。宿泊地は、坂戸宿・佐野宿・鹿沼宿です。
 宿場は八王子千人同心町から(1)拝島宿(2)箱根ケ崎宿(以上東京都)(3)二本木宿(4)扇町屋宿、入間川を渡って(5)根岸宿(6)高萩宿、越辺川を渡って(7)坂戸宿(8)高坂宿(埼玉県東松山市)、都幾川を渡って(9)松山宿(東松山市)、市ノ川・荒川を渡り中山道と交差して(10)行田宿(11)新郷宿(以上埼玉県)、利根川を渡って(12)川俣宿(13)館林宿、渡瀬川を渡って(14)佐野宿(15)富田宿、永野川を渡って(16)栃木宿(17)合戦場宿(18)金崎宿、小倉川を渡って(19)楡木宿(20)奈佐原宿(21) 鹿沼宿、黒川を渡って(22)文挟宿(23)板橋宿(24)今市宿、となります。

 ■参考資料

『歴史の道調査報告書第四集 日光脇往還』埼玉県教育委員会、1985年
『埼玉・歴史の道50話』埼玉県立博物館編著、埼玉新聞社、2005年
「いるま歴史ガイド」ホームページ、入間市博物館ALIT
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